メールマガジンバックアップ

Vol. 53 公と私について考える

今回は、「公」と「私」について、考えてみたいと思います。 といっても「公立」「私立」という学校制度のことではなく、個人における「公」と「私」の意識、ということについて、お話をすすめていきます。 日本では数年前から、「ジベタリアン」などと言う言葉が巷で聞かれるようになりました。 これは、「地べた」、つまり外の平らな場所であればどこでも座り込んでしまう最近の若者の行動を表現したものです。 電車の中、コンビニの前、ビルの入り口、若者たちは所在なさげにたむろし、しゃがみこんで、何をするでもなく飲んだり食べたりタバコを吸ったりしています。 また、電車の中でお化粧をする女性に関してもよく話題になっています。 ネットニュースでは「良いと思う・駄目だと思う」といったことに対してネット投票が行われたりしています。 同じ電車の中では、携帯電話の通話に関するマナーも、車内放送では何度も注意が流されますが、やはりいまでも大きな声で通話する人がいるようです。 「地べたにしゃがみこむ」「車内でお化粧をする」「電車で携帯電話で話している」というような行動について、皆さんはどう思われますか。 私は、よくよく考えるまでもなく「それはおかしい」と考えています。 しかし、その理由を自分に問うてみると、「邪魔だから」「車内だから」「迷惑だから」といった答えしか出てこず、何かしっくりこないものを覚えていました。 「社会的なモラルが低下している」「倫理観の問題だ」「大人が悪い」といった意見もよく耳にしますし、もちろん私もそう感じていますが、では、こういった「何かしっくりこない行動」を是正するに足りる説得力があるかと言えば、どうも弱いと考えていました。 「倫理観」「モラル」、どうも解決策としてはぼんやりとしているような気がしていました。 このことについて考えていた時、私の頭に浮かんだ言葉が「公と私」です。 そして、先週にもお伝えした大学生の問題にも共通して言える、今の教育が「教え損なった」ある観点について考えました。 なぜ、車内でお化粧をしている人を見ると、目にしたこちらがどうも落ち着かない気持ちになるのでしょうか。 それは、「お化粧をする」という行為が社会通念に照らし合わせたときに「私」の部類に属する行動であるからです。そして「電車の中」は、まぎれもなく「公」の場です。 「公」の場で一個人の「私」の活動が堂々と行われていること、それを図らずも目撃してしまうことに対して、私たちは何とも言えない居心地の悪さを感じるのです。 自分の家で、例えば奥さんがお化粧をしていても何とも思いませんね。 それは家という「私」の場でお化粧と言う「私」の行為が行われているからです。 場と行動が合っているということです。 地べたに座ること、誰にも迷惑をかけていないのだから良いではないか、という意見もあるでしょう。 しかしそういった「最低限であれば良い」という消極的な考え方や教育が、現代の若者から「公共心」を奪ってしまっているのです。 「公共心」という言葉には、たくさんの意味があります。 それは「社会の役に立つこと」でもあるし、「公共物を大切にすること」「人権を守ること」と言ったことも指すでしょう。 そこには、「私は、『公』としての存在でもある」という、最も重要な観点があることを忘れてはいけません。 「公と私」について語ると、必ず「個性の伸長」についての意見を聞きます。 個性とは、誰にも迷惑をかけさえしなければ何をしてもいいではないか、などという最低限のレベルにおいて伸びるものではありません。 それはいわば「見せかけの個性」です。 「公を知る」とは、礼儀や慎ましさ、恥を知る、ということでもあります。 社会の一員としての責任感を教え、その中で自分は何ができるのかということを考えさせ社会に役立つ個性を伸ばすという考え方を教えること、それこそが正しい「個性の伸長」です。「公」と「私」は、一枚のコインの裏表でありながら、決して対極にある存在ではなく、むしろ補完関係にあるということができるでしょう。 「公」があるからこそ、本当の「私」が輝く、「私」を磨くことが「公」に還元されていく。 根気強く「公共心」を教え育てていくことは、モラルハザードと言われる現代の日本人の心と行動を正しく導く手段となるのではないでしょうか。 最後まで読んでいただき、ありがとうございました。 (原田隆史)